Fsmism

個人的なアウトプットを中心に

アウトプットの難しさについて(やるかやらないか。Do or do not. There's no try.)

最近実用書の読書や、ブログなどのオンラインメディアを積極的に受容していて、自分の中でインプットが充実つつあるのを感じる。feedlytwitterで巡回し、linerで線を引き保存する。紙媒体の本なら要約をメモしたり写メしたりする。図書館で興味が湧く本を借りる。自分の中でのネットや本の情報を消化するルーティンが構築されつつあり、情報を得るのが楽しくなりつつある。

 

翻ってアウトプットであるが、これはあまり芳しくない。受験勉強と異なり勉強をアウトプットする機会が非常に乏しく感じるのが実情である。アカデミックな内容ならまだしも、アイデアハックや実用書といったもののアウトプットができていないのはあまりよろこばしくない。自分は学生でありアウトプットする機会に恵まれていないというのは所詮言い訳に過ぎない。かといってブログに書くことも考えたが、要約を書くことにあまり意義を感じない。所詮ハイライトやメモしたことをただ書き写すだけになってしまうからだ。書かれている内容をしっかり理解できているか確認するテストみたいなのも考えてみたものの、書かれていることを理解することは実用書において本質的とはとても言い難い。

 

イデアより実行力が重要とはよく言ったもので、結局のところ「やるかやらないか」が1番の問題のようである。ライフハックやアイデアハックの本や記事で語られる内容は本質的に似通っている部分が非常に多い。その本にしか書かれていない斬新なアイデアは稀で、本質的に同じことを表現を変えて述べていることが非常に多い。方法論にオリジナリティはあっても、それが志向するものは同じである場合が多い。これは考えてみれば当たり前かもしれない。

 

問題は、そこでよく語られていることを自分が実践し、結果を出すことである。運動が重要であることを認識している人と、実際に運動をする人には大きなギャップがある。何か目的を達成するための行動は往々にして地味でかつ辛いものであり、時間がかかることが多い。投資におけるリスクとリターンと似たものを感じる。短時間の努力で大きなリターンを得るのは非常に難しいように感じる。

 

どれだけ生き方やアイデアハックを学んだところで、それを実践し、役立たねば意味がない。じゃ、どのように活かせばいい?結局のところ1番の課題は自分が何をしたいのかがしっかり把握できていないことのように感じる。これは読書ではなく自問自答で解決するしかない。

 

しかし、上記の結論が得られたのもこうしてブログという形でアウトプットしたからであり、それを考えてみるとこのブログによって学んだことを考えとともにアウトプットするのも悪くないかもしれないと感じつつある。

 

 

 

Webページに簡単にマーカー引けて保存できるiPhoneアプリ「 LINER」

私は基本的にipadでウェブを閲覧しているのだが、この記事いいなと思ってEVERNOTEで保存してもなかなか見返すことがないことに気づいた。EVERNOTEは見返すのに結構手間がかかるし、最初読んだ時にどこに注目していたのかがぱっと見ではわからない。(個人的にEVERNOTEは機能が多すぎて逆に使いづらい)

 

何かいいアプリないかと探していたらうってつけのアプリがあった。LINERである。ウェブページにマーカー引けて保存し、見出しではハイライト部分のみ表示する、ただそれだけのアプリである。だがシンプルな機能ゆえ動作は軽快。イメージとしてはkindleのハイライト機能のウェブ版と言ったらわかりやすいかもしれない。

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いまは多分出たばかりなのでプレミアム機能も自由に使える(どの機能がプレミアムなのかわからないけど)。かりに有料化されたとしても即購入するだろうな。

調べてみるとios版しかないようだな。アンドロイドユーザーは残念。

LINER(ライナー)-ネット蛍光ペン

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本棚に置いてある本とは

メルカリカウルがリリースされて、自分も出品してみようと思い、本棚に置いてある本をいくつか出品してみた。早いものは出品直後に売れてしまうので、登録から売買まで最速で1分もかからないという。手軽すぎる。

 

味をしめたので本棚にある本をもっと出品しようと思い、愕然とした。本棚にある本のうち、「もう読み終わっていて、また読みたいから出したくない」という本が圧倒的に少ないのである。大多数は読んでないけど別に興味ない、あるいはまだ読んでなくて興味あるから置いておく、という本だらけなのである。

 

自分の家にある本棚は、言ってしまえば積ん読の塊だったのだ。

 

自分の本棚のイメージしていたのは、一度読み終わったけれどまた読みたい、あるいは読む必要のあるという本を置いておく場所であったので、イメージと実際のギャップの甚だしさに愕然とし、閉口してしまった。最近は特に断捨離やミニマリズムに傾倒しつつあるので尚更自分の体たらくに驚きを隠せない。

 

思えば自分のよくあるパターンとして、その本を買う瞬間が興味のクライマックスであるということが往往にしてある。興味あるから買ってはみたものの、数ページ読んで飽きてしまう、という失敗が今まで散々繰り返されてきたのだ。自分は本を買うのはその情報を得るためとか、それを契機に思索を深めるとかではなく、本を買いたいから本を買っていた。手段が目的となっていたのだ。

 

他の人たちの本棚はどうなのだろう。

 

本棚にある本というのは自分の中で中途半端な存在の本になってはいないか。「また読みたい」という本は本棚の中でどれくらいの割合を占めているか。一種のインテリアになってはいないか。

 

ツタヤが運営する図書館でインテリア目的の洋書が大量に購入されたという出来事があり、だいぶ問題になっていたが、その構造には通ずるものがあるような気がする。この出来事を批判する前に、自分の本棚を見返さなかればならなかったのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

思索考察つづき 読書に関して

 

前回の思索の記事があまりにも自分の中で納得がいったのでそれきり放置しっぱないだっだが、思索に関連して触発される記事に出会ったので再び自由に書いてみる。

記事に取り上げられている本のうちショーペンハウワーとピエールバイヤールの本は読んだことがある。どちらも読書観に関するものである。

前者の『読書について』

読書について 他二篇 (岩波文庫)
は思索と読書の関係性が述べられていて、あくまで思索が重要であり、読書は所詮その代用であり、本来的には不要なもの、そして思索を鍛えるために古典を礼賛しそれ以外を批判する、といった内容だったと記憶している。ショーペンハウワーの本批判は自己の本にも向けられるという論理的矛盾がありながらも、よくある読書礼賛とは一線を画していて面白い。

後者の『読んでない本について堂々と語る本』

読んでいない本について堂々と語る方法 (ちくま学芸文庫)
は、言って見れば文章のインターテクスチュアリティを読書の視点から論じたものである。あらゆるテクストは他のテクストを編んだものであるというバルトのテクスト理論をベースに、書物を直接読まなくても間接的に読めることから、読むとはどういうことかを問うてくるものだったはずである。

 

最近読んだものに『本の「使い方」』

本の「使い方」 1万冊を血肉にした方法 (角川oneテーマ21)

というのがあるが、この読書観の中に情報収集のための読書と思索のための読書の二つを分けて考えるというのがあり、これは結構腑に落ちた。情報収集の方は最近の本を流し読みで多読する一方、思索の方は古典を精読し、その内容よりもその思索の様式を学ぶというものである。これはショーペンハウワーの読み方を内包しつつも、現実路線を行っていてなかなか受け入れやすいのではないか。

 

いずれにせよ、そろそろ自分の関心のある古典に取り組まないといけない時期が来たのかもしれない。社会人になったらまあ読まなくなるだろうし、現実問題この学生の時期が一番読書に集中できるだろうし。問題はこの救い難き飽き性なのだが。

思索とはなにか

なんかブログを書こうと思った時にネタ元としていろんな記事や文献を参考にして知識をつけなきゃいけないという固定観念があったのか、案の定毎日更新という日課は三日坊主になってしまった。下書きに書きたいリストみたいに書きかけがたまっていって、でもなんとなく放置してという流れになっている。

 

でもよく考えたらこのブログの目的はかっこつけてしまえば自己の思索の発露なのだから、まず最初にあるべきは自分であって、他の文献などで知識を補うのは所詮バックグラウンドにすぎないと考えたら、もっと気楽に肩の力を抜いて更新できると考えられるようになった。

 

自分は日記というものは書いた記憶はなく、あるのは浪人時代から手帳を活動記録がわりにしていることくらいなのだが、そうするとその時何を考えたのかが記憶頼みになってしまう。ブログは、ある意味自分の思索を記録する役割としてあり続けて欲しい。

 

高校時代にも仲間内でブログを作って更新していたが、今見てみると気恥ずかしいことこの上ない。その当時の記憶がありありと思い返されてうんざりする。多分このブログもその運命を辿るのではないかと予想する。

 

思索はなかなか機会が与えられないと行わないのではないか。そして思索はなかなか外に発露されないのではないか。しかし個人が発信する手段を持ちつつあるこの時代において、個人が思索するチャンスは以前より増した。これを利用しない手はない。

 

個が個であり続けるためには思索を怠らないことではないか。情報過多なこの時代、個の在り方が多様化しつつある中で自分を見失わないためには、オリジナルな何かを獲得する必要があると考えたとき、思索は、常にオリジナルであり続けるのではないか。その思索の末に得られた結論が他にない独特なものである必要はない。自分が思索し、自分の中で議論を重ね、そしてどこかに落ち着く。そのプロセスこそオリジナルを自負できるものといえないだろうか。

 

自分が何者なのか、なんのために生きるのか、自由とは何か……哲学的な問いはその思索を与えるきっかけになりうるかもしれないと、ふと考えた。自分は哲学について詳しいとはいえない。どこか現実離れしたところに苦手意識があったのかもしれない。でも、個の確立のための思索、その手段としての哲学と考えると、ふと哲学が身近な存在のように思えてきた。興味あるテーマについて考えるために、哲学を知るのもいいかもしれない。

 

思索は面白い。このブログを書き始めたとき、哲学のての字も頭の中になかった。スマホで入力している過程で急に思いついた。個の確立という発想も最初はなかった。自分が考えもしなかった内容をブログを書くという行為を通じて得られたと考えると、ふとブログを書くモチベーションが上がる自分がいる。

1から最速で麻雀が打てるようになる方法(必要な役は?、点数計算は?)

で麻雀入門の項目を読む。次に

http://tenhou.net/

でひたすら打つ。

 

これだけ。麻雀はとにかく慣れたもん勝ちです。あと注意すべきは以下のポイントです。

 

・点数計算はいらない

麻雀を始める前から点数計算を気にする必要はありません。ある程度慣れてからで十分です。ネットだと勝手にやってくれるし、身内で打つなら他のわかってる人に丸投げしよう。符計算とかしばらくいらないです。

 

・役は5つだけ

最初はリーチ、タンヤオ、ピンフ、役牌、風牌だけで十分です。他はオマケ、ついたらラッキーくらいで考えるといいです。

 

***

麻雀やらないの?って人に聞くとだいたい役覚えるのめんどくさいだの点数計算がわからないだの言われる。俺からすると麻雀はそのハードルを乗り越えてでも学ぶべきゲームだと考える。何が学べるのか。一つだけ上げろというなら俺はリスクリターンが学べると思う。どれくらいのリスクをとってリターンを求めるか。リスクリターンの考え方は麻雀以外にもあらゆる場面で用いられる。それを学ぶ上でうってつけなのである。

 

麻雀がゲームとして魅力的なのは不完全情報ゲームであることも大きい。ポーカーと同様にルールを覚えたてのひよっこが玄人を負かす可能性もある。しかし長期的な視点に立つと偶発性は収束しトータルでは玄人が必ず勝つ。これは投資という分野にも共通する特徴といえる。

 

世間では麻雀と聞くといい顔をしない。でもそういう顔をする人の大半は麻雀をやったことがない。

 

麻雀が面白くなる要素の一つである賭けについての序章として書いた。

 

 

 

法政トマホークス、名称を法政オレンジへ

法政のアメリカンフットボール部が名称を変更したというのはかなり自分のとってインパクトがでかい。理由がネイティヴアメリカンへの配慮がメインだからだ。

 

日本のチームが?と思うかもしれないが、ここの監督はアンダーアーマーの輸入やサプリメント、ドームアスリートハウスなどをしているDOME社の社長であり、この会社が日本の大学スポーツのNCAA化を図ろうとしているのが背景にある。アメリカの大学のスポーツ界は日本とは比較にならないほど規模も取り巻く経済規模も異なる。確かに日本の大学スポーツがアメリカのようになればそれはかなりアツいのは間違いない。NCAAにおけるスポーツは大学の象徴であり、誇りであるからだ。

 

法政トマホークスは昨年前任者の不正による引責辞任の後、社長の下でDome社が全面的にバックアップを行っている。引責辞任のきっかけになったのがDome社の役員のフェイスブックでの告発がきっかけであると私は認識していて、そこからの権力掌握は是非はともかく唸らざるを得ない。

 

話が逸れたが、今回名称変更の背景にあるのがhttps://ja.wikipedia.org/wiki/インディアン・マスコット

である。これを聞いてフットボールファンが思い浮かぶのがNFLのワシントンレッドスキンズである。ここは毎年改名論争がなされていて、ネイティヴアメリカンの方も抗議を行っているから、ポリコレ的に問題であるのは間違いない。

 

ではトマホークスがどうだろうか。これも調べて見る限り微妙なところにあるのは間違いない。上の記事にもトマホークについて言及がなされているし。

 

ここで考えるのが名称変更のインパクトである。確かに名前の変更は新しい体制の象徴になりうるし、これからの経営戦略においてのリスクマネジメントという意味でもおいしいことは間違いない。確かにトマホークスという名前に愛着がある人もいるかもしれないが、新しい名前に変えたぐらいでファンに愛されるチームが作れないようではNCAA化なんてもってのほかということなのだろう。その意味でも名称変更は面白い。

 

 

ただオレンジはないだろ。ダサすぎる。センスを疑う。どうした?果物?って感じだ。そこはもっと気合入れろよ。汎用性は高いけどさあ。

 

オレンジが愛されるチームになれるのか、今後が楽しみである。