Fsmism

個人的なアウトプットを中心に

「実名は信用できる」のウソ

「実名だから安心」はカモになる

 私はやぎぺー氏を結構応援している。『LIFE SHIFT』におけるエクスプローラー的な存在のロールモデルになりうるのではないか、と考えているからである。彼がこれからどのようなアクションをするのか結構楽しみにしている。(関連記事はこちらから)

しかし先日のこの記事は強烈な違和感を感じた。

趣旨としてはクレジットカードを選ぶ際に匿名のアフィリエイトサイトを避け、実名の知り合いのブログを参考にしたことを踏まえて、信頼性をどこに置くかという話である。

確かにこのケースではその信頼の置き方はあっているように感じる。しかしこのやり方を一般化するのは非常に危険な印象を持つ。

例えば実名で書いているブログ内で『ガンは自然治癒で治る!』みたいな本をおすすめしたとします。

それを信じてブログから購入した読者が、信じてガンを自然治癒で治そうとする。それで当然治るわけもなく、ガンが悪化してしまった。

この場合の責任はどこにあるでしょうか?

もちろん最終的な責任は判断した読者自身ですが、本をおすすめしていたブログ著者にも少なからず責任はあります。

その結果、ブログ著者は一生捨てられない名前に傷がつく。

実名で情報発信するということは、常にこういうリスクを背負っているということです。

 (上記ブログより引用)

確かにこのリスクはつきまとうため、実名ではあられもない情報発信をしない、という論理展開は理解できる。しかしこれは、リスクを踏まえた人間とリスクを知らない人間には当てはまらないという但し書きが必要である。

前者は例えば詐欺コインを主導する人間や一部でカリスマ的人気を集めようとする人間が挙げられる。彼らは実名(この場合実名か確認できる術はないが)で名前を出し、信者を囲い込みにし莫大な収益を挙げる。世の中の好感度などを気にせずとも、莫大なリターンを得ることができるため、リスクを踏まえてでもこのような行動ができる。(それゆえタチが悪い)

後者は例えばホメオパシーを推進する人間などが挙げられる。彼らは自分らの行いのリスクを知らないが、知らないからこそ堂々と行動する。無知ゆえに善良だと信じている行動で他者に害悪を振りまく。明らかな誤謬を含む情報を実名顔出しで堂々と振りまく事例なんて数えたらきりがない。

 

情報には2種類ある

私は情報には2種類あると思っている。「ソースを意識すべき情報」と「内容自体を意識すべき情報」である。前者は例えば法律や医療知識といった、専門性が問われてくるものは、情報自体で真偽を判断することは結構厳しいので、その発信元やエビデンスを慎重に踏まえる必要がある。ただの素人の知識と専門家の知識では明らかに後者の方が価値がある。(ただしその専門性はネット社会の普及によってハードルは下がってきてはいるが)

しかし後者、例えば人生訓とかちょっとした裏ワザといったものは、そのソースよりも情報自体に価値があると思っている。スーパーの値下げ情報にソースの確認なんて必要ない。ライフハックに実名はいらない。情報自体を各々が判断すれば良い。

 しかしどちらにせよ、情報自体を信じるかどうかは個人のリテラシーに寄るところが大きい。情報が氾濫する現代社会において、実名か否かといった基準での情報判断は一つの基準にはなり得ても、全面的な拠り所にすべきものとは思えない。信頼できるソースをどのように持つか。どのような判断基準で情報を取捨選択できるか。これらがこれからの世の中においてよりいっそう重要になるのは間違いない。