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Fsmism

個人的なアウトプットを中心に

思索考察つづき 読書に関して

 

前回の思索の記事があまりにも自分の中で納得がいったのでそれきり放置しっぱないだっだが、思索に関連して触発される記事に出会ったので再び自由に書いてみる。

記事に取り上げられている本のうちショーペンハウワーとピエールバイヤールの本は読んだことがある。どちらも読書観に関するものである。

前者の『読書について』

読書について 他二篇 (岩波文庫)
は思索と読書の関係性が述べられていて、あくまで思索が重要であり、読書は所詮その代用であり、本来的には不要なもの、そして思索を鍛えるために古典を礼賛しそれ以外を批判する、といった内容だったと記憶している。ショーペンハウワーの本批判は自己の本にも向けられるという論理的矛盾がありながらも、よくある読書礼賛とは一線を画していて面白い。

後者の『読んでない本について堂々と語る本』

読んでいない本について堂々と語る方法 (ちくま学芸文庫)
は、言って見れば文章のインターテクスチュアリティを読書の視点から論じたものである。あらゆるテクストは他のテクストを編んだものであるというバルトのテクスト理論をベースに、書物を直接読まなくても間接的に読めることから、読むとはどういうことかを問うてくるものだったはずである。

 

最近読んだものに『本の「使い方」』

本の「使い方」 1万冊を血肉にした方法 (角川oneテーマ21)

というのがあるが、この読書観の中に情報収集のための読書と思索のための読書の二つを分けて考えるというのがあり、これは結構腑に落ちた。情報収集の方は最近の本を流し読みで多読する一方、思索の方は古典を精読し、その内容よりもその思索の様式を学ぶというものである。これはショーペンハウワーの読み方を内包しつつも、現実路線を行っていてなかなか受け入れやすいのではないか。

 

いずれにせよ、そろそろ自分の関心のある古典に取り組まないといけない時期が来たのかもしれない。社会人になったらまあ読まなくなるだろうし、現実問題この学生の時期が一番読書に集中できるだろうし。問題はこの救い難き飽き性なのだが。