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Fsmism

個人的なアウトプットを中心に

思索とはなにか

なんかブログを書こうと思った時にネタ元としていろんな記事や文献を参考にして知識をつけなきゃいけないという固定観念があったのか、案の定毎日更新という日課は三日坊主になってしまった。下書きに書きたいリストみたいに書きかけがたまっていって、でもなんとなく放置してという流れになっている。

 

でもよく考えたらこのブログの目的はかっこつけてしまえば自己の思索の発露なのだから、まず最初にあるべきは自分であって、他の文献などで知識を補うのは所詮バックグラウンドにすぎないと考えたら、もっと気楽に肩の力を抜いて更新できると考えられるようになった。

 

自分は日記というものは書いた記憶はなく、あるのは浪人時代から手帳を活動記録がわりにしていることくらいなのだが、そうするとその時何を考えたのかが記憶頼みになってしまう。ブログは、ある意味自分の思索を記録する役割としてあり続けて欲しい。

 

高校時代にも仲間内でブログを作って更新していたが、今見てみると気恥ずかしいことこの上ない。その当時の記憶がありありと思い返されてうんざりする。多分このブログもその運命を辿るのではないかと予想する。

 

思索はなかなか機会が与えられないと行わないのではないか。そして思索はなかなか外に発露されないのではないか。しかし個人が発信する手段を持ちつつあるこの時代において、個人が思索するチャンスは以前より増した。これを利用しない手はない。

 

個が個であり続けるためには思索を怠らないことではないか。情報過多なこの時代、個の在り方が多様化しつつある中で自分を見失わないためには、オリジナルな何かを獲得する必要があると考えたとき、思索は、常にオリジナルであり続けるのではないか。その思索の末に得られた結論が他にない独特なものである必要はない。自分が思索し、自分の中で議論を重ね、そしてどこかに落ち着く。そのプロセスこそオリジナルを自負できるものといえないだろうか。

 

自分が何者なのか、なんのために生きるのか、自由とは何か……哲学的な問いはその思索を与えるきっかけになりうるかもしれないと、ふと考えた。自分は哲学について詳しいとはいえない。どこか現実離れしたところに苦手意識があったのかもしれない。でも、個の確立のための思索、その手段としての哲学と考えると、ふと哲学が身近な存在のように思えてきた。興味あるテーマについて考えるために、哲学を知るのもいいかもしれない。

 

思索は面白い。このブログを書き始めたとき、哲学のての字も頭の中になかった。スマホで入力している過程で急に思いついた。個の確立という発想も最初はなかった。自分が考えもしなかった内容をブログを書くという行為を通じて得られたと考えると、ふとブログを書くモチベーションが上がる自分がいる。